嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え 岸見一郎、古賀史健
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レバレッジ・メモを読み返してさらに理解が深まる。
本田さんに感謝。
レバレッジ・メモの部分はポメラDM5で入力。
この本の内容は、どなたかのamazonレビューのように劇薬です。
取扱注意です。
注意して読んでください。
アドラーの心理学は、人間の本質をついています。
思い当たることばかりです。
自分が変わらないといけない。
そうです。実践します。
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・人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味付けをほどこした主観的な世界に住んでいます。あなたが見ている世界は、私が見ている世界とは違うし、およそ誰とも共有し得ない世界でしょう。
・井戸水の温度は年間を通してほぼ18度で一定しているのに、夏に飲む井戸水は冷たく感じ、冬に飲む井戸水は温かく感じます。あなたにとっては、井戸水の冷たさも温かさも動かしがたい事実なのです。主観的な世界に住んでいるとは、そういうことです。
・もしかするとあなたは、サングラス越しに世界を見ているかもしれない。世界が暗く見えるのは当然。暗い世界を嘆くのではなく、外してしまえばいい。そこに映る世界は強烈にまずしく、思わずまぶたを閉じてしまうかもしれません。それでもなお、サングラスを付けずにいられるか。世界を直視することができるか。あなたにその「勇気」があるか。
・大きな災害に見舞われたとか、幼い頃に虐待を受けたといった出来事が、人格形成に及ぼす影響がゼロだとはいいません。影響は強くあります。しかし、大切なのはそれによってなにかが決定されるわけではない、ということです。われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。
・大声を出すという目的が先にあった。すなわち、大声を出すことによって、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分のいうことを聞かせたかった。その手段として、怒りという感情をねつ造した。
・言葉で説明する手順を面倒に感じ、無抵抗な相手を、より安直な手段で屈服させようとした。その道具として、怒りの感情を使った。
・怒りとは出し入れ可能な「道具」。ただ大声で娘を威圧するため、それによって自分の主張を押し通すために、怒りの感情を使っている。怒りは、目的を達成するための手段。
・人は感情に支配されない。さらには過去にも支配されないという意味において、アドラー心理学はニヒリズムの対極にある思想であり、哲学。
・過去にどんな出来事があったとしても、そこにどんな意味付けをほどこすかによって、現在のあり方は決まってくる。
・われわれの自由意志を否定し、人間を機械であるかのように見なしているのは、むしろフロイト的な原因論なのだと理解してください。
・変わることの第一歩は、知ることにあります。
・答えとは、誰かに教えてもらうものではなく、自らの手で導き出していくべきものです。他者から与えられた答えはしょせん対処療法にすぎず、何の価値もありません。
・ギリシア語の「善」(agathon)という言葉には、ただ「為になる」という意味です。「悪」(kakon)という言葉には、「為にならない」という意味。この世界には、不正や犯罪など様々な悪行がはびこっています。しかし、純粋な意味での「悪=為にならないこと」を欲するものなど、ひとりもいないのです。
・アドラー心理学では、性格や気質のことを「ライフスタイル」という言葉で説明します。その人が「世界」をどう見ているか。また「自分」のことをどう見ているか。これらの「意味付けのあり方」を集約させた概念がライフスタイル。狭義的には性格、もっと広く、その人の世界観や人生観まで含んだ言葉。
・もしもライフスタイルが先天的に与えられたものではなく、自分で選んだものであるのなら、再び自分で選び直すことも可能なはず。
・問題は過去ではなく、現在の「ここ」にある。これまで通りのライフスタイルを選び続けることも、新しいライフスタイルを選び直すことも、すべてはあなたの一存にかかっています。
・人はいつでも、どんな環境に置かれていても変われます。あなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているからなのです。
・「このままのわたし」であり続けていれば、目の前の出来事にどう対処すればいいか、そしてその結果どんなことが起こるのか、経験から推測できます。いわば、乗り慣れた車を運転している状態です。多少のガタがきていても、乗りこなすことができるわけです。一方、新しいライフスタイルを選んでしまったら、何が起こるかわからない。見通しが立たないし、不安だらけ、もっと苦しく、もっと不幸な生が待っているかもしれない。つまり人は、いろいろ不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。
・小説家になることを夢見ながら、なかなか作品を書き上げられない人。実際のところは、応募しないことによって、「やればできる」という可能性を残しておきたい。人の評価にさらされたくないし、ましてや駄作を書き上げて落選する、という現実に直面したくない。時間さえあればできる、環境さえ整えばかける、自分にはその才能があるのだ、という可能性の中に生きていたいのだ。
・賞に応募して、落選するならすればいいのです。そうすればもっと成長できるかもしれない。あるいは、別の道に進むべきだとわかるかもしれない。いずれにせよ、前に進むことができます。
・これまでの人生に何があったとしても、今後の人生をどう生きるかについて何の影響もない。自分の人生を決めるのは、「いま、ここ」に生きるあなたなのだ。
・短所ばかりに目がついてしまうのは、あなたが「自分を好きにならないでおこう」と、決心しているから。自分を好きにならないという目的を達成するために、長所を見ないで短所だけに注目している。自分を好きにならないことが、あなたにとっての「善」なのです。
・あなたは他者から否定されることを怖れている。誰かから小馬鹿にされ、拒絶され、心に深い傷を負うことを怖れている。そんな事態に巻き込まれるくらいなら、最初から誰とも関わりを持たない方がましだと思っている。つまり、あなたの「目的」は、「他者との関係の中で傷つかないこと」なのです。
・自分の短所を見つけ、自分のことを嫌いになり、対人関係に踏み出さない人間になってしまえばいい。そうやって自分の殻に閉じこもれば、誰とも関わらずにすむし、仮に他者から拒絶されたときの理由付けにもなるでしょう。
・対人関係の中で傷つかないなど、基本的にあり得ません。対人関係に踏み出せば大なり小なり傷つくものだし、あなたも他の誰かを傷つけている。アドラーは「悩みを消し去るには、宇宙の中にただひとりで生きるしかない」のだと。しかし、そんなことはできないのです。
・孤独を感じるのは、あなたがひとりだからではありません。あなたを取り巻く他者、社会、共同体があり、そこから疎外されていると実感するからこそ、孤独なのです。われわれは孤独を感じるのにも、他者を必要とします。
・アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」とまで断言している。
・劣等感とは、自らへの価値判断に関わる言葉。自分には価値がないのだ、この程度の価値しかないのだ、といった感覚。
・主観にはひとつだけいいところがあります。それは、自分の手で選択可能だということ。自分の身長について長所と見るのか、短所と見るのか。いずれも主観に委ねられているからこそ、わたしはどちらを選ぶこともできます。
・欠如した部分を、どのようにして補償していくか。もっとも健全な姿は、努力と成長を通じて補償しようとすること。勉学に励んだり、練習を積んだり、仕事に精を出したりする。しかし、その勇気を持ち得ていない人は、劣等コンプレックスに踏み込んでしまう。「学歴が低いから、成功できない」と考える。「もしも学歴さえ高ければ、自分は容易に成功できるのだ」と、自らの有能さを暗示する。
・わたしと権威を結びつけることによって、あたかも「わたし」が優れているかのように見せかけている。偽りの優越感。権威の力を借りて自らを大きく見せている人は、結局他者の価値観に生き、他者の人生を生きている。
・自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。自分がいかに不幸で、いかに苦しんでいるかを訴えることによって、周囲の人々(たとえば家族や友人)を心配させ、その言動を束縛し、支配しようとしている。
・弱さは非常に強くて権力がある。
・健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるもの。
・すべての人間は「同じではないけれど対等」
・大人扱いするのではなく、子ども扱いするのでもなく、いわば「人間扱い」するのです。自分と同じ一人の人間として、真摯に向かい合うのです。
・縦の軸が存在しない平らな空間を、われわれは歩んでいる。われわれが歩くのは、誰かと競争するためではない。いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値がある。
・時計の針を巻き戻すことはできません。しかし、過去の出来事にどのような意味付けをほどこすか。これは「いまのあなた」に与えられた課題。
・もしも面罵されたなら、その人の隠し持つ「目的」を考える。相手の言動によって本気で腹が立ったときには、相手が「権力争い」を挑んできている。相手は闘って勝ちたい。勝つことによって自らの力を証明したい。
・仮にあなたが言い争いに勝ったとしても、権力争いはここで終わらない。争いに敗れた相手は、次の段階、復讐の段階に突入する。
・親に虐げられた子どもが非行に走る。不登校になる。リストカットなどの自傷行為に走る。これらは、子どもが隠し持っている目的、「親への復讐」である。親は困る。あわてふためき、胃に穴があくほど深刻に悩む。子どもはそれを知った上で、問題行動にでている。
・対人関係が復讐の段階まで及んでしまうと、当事者同士による解決はほとんど不可能になる。そうならないためにも、権力争いを挑まれたときには、絶対に乗ってはならない。
・権力争いだと察知したら、いち早く争いから降りる。相手のアクションに対してリアクションを返さない。われわれにできるのは、それだけ。
・怒りとは、しょせん目的をかなえるための手段であり道具。
・怒りとはコミュニケーションの一形態であり、怒りを使わないコミュニケーションは可能。われわれは怒りを用いずとも意思の疎通はできるし、自分を受け入れてもらうことも可能。それが経験的にわかってくれば、自然と怒りの感情もでなくなります。
・怒ってはいけない、ではなく「怒りという道具に頼る必要がない」。怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らない。
・われわれには、言葉がある。言葉によってコミュニケーションをとることができる。言葉の力を、論理の言葉を信じるのです。
・いくら自分が正しいと思えた場合であっても、それを理由に相手を非難しないようにしましょう。ここは多くの人が陥る、対人関係の罠です。
・人は、対人関係の中で「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れている。
・わたしは正しい。相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまう。「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思いこみにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。これは完全な権力争い。
・そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。
・誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。
・アドラー心理学は、人間の行動面と心理面のあり方について、はっきりとした目標をかかげている。
行動面の目標
1)自立すること
2)社会と調和して暮らせること
この行動を支える心理面の目標
1)わたしには能力がある、という意識
2)人々はわたしの仲間である、という意識
これらの目標は、アドラーのいう「人生のタスク」と向き合うことで達成できる
・「人生のタスク」とは、人が成長する過程で生まれる対人関係を「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」の3つに分け、まとめて「人生のタスク」と呼んでいる。
・ひとりの個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係。それが人生のタスク。「直面せざるをえない」という意味において、まさしく「タスク」
・友達や知り合いの数には、何の価値もありません。考えるべきは関係の距離と深さなのです。
・あなたが変われば、周囲も変わります。変わらざるをえなくなります。アドラー心理学とは、他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学です。
・「愛のタスク」は2つの段階に分かれる。ひとつは、いわゆる恋愛関係。もう一つは、家族との関係、特に親子関係。仕事、交友と続いてきた3つのタスクのうち、愛のタスクがもっともむずかしい。
・友人関係から恋愛関係に発展したとき、友達のあいだは許せていた言動が、恋人になった途端に許せなくなることがある。具体的には、異性の友達と遊んでいるのが許せなかったり、場合によっては異性の誰かと電話をしているだけで嫉妬したりする。それだけ距離も近いし、関係も深い。
・しかし、アドラーは、相手を束縛することを認めません。相手が幸せそうにしていたら、その姿を素直に祝福することができる。それが愛であり、互いを束縛しあうような関係はやがて破錠してしまうでしょう。
・一緒にいてどこか息苦しさを感じたり、緊張を強いられるような関係は、恋であっても愛とは呼べない。人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができます。劣等感を抱くでもなく、優越性を誇示する必要にも駆られず、平穏な、きわめて自然な状態でいられる。ほんとうの愛とは、そういうことです。
・束縛とは、相手を支配せんとする心の表れであり、不信感に基づく考えでもあります。
・一緒に仲良く暮らしたいのであれば、互いを対等の人格として扱わなければならない。
・恋愛が赤い糸で結ばれた関係だとするならば、親子は頑強な鎖でつながれた関係。
・どれほど困難に思える関係であっても、向き合うことを回避し、先延ばしにしてはいけない。いちばんいけないのは、「このまま」の状態で立ち止まること。
・仮にあなたがAという人物のことを嫌っているとしましょう。なぜなら、Aさんには許し難い欠点があるからだ、と。しかし、それは、Aさんの欠点が許せないから嫌っているのではありません。あなたには「Aさんのことを嫌いになる」という目的が先にあって、その目的にかなった欠点を後から見つけだしているのです。Aさんとの対人関係を回避するために!
・相手は何も変わっていません。自分の「目的」が変わっただけ。
・人はその気になれば、相手の欠点や短所などいくらでも見つけだすことができる、きわめて身勝手な生き物なのです。
・アドラーは、さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態をさして、「人生の嘘」と呼びました。
・いま自分が置かれている状況、その責任を誰かに転嫁する。他者のせいにしたり、環境のせいにしたりすることで、人生のタスクから逃げている。
・あなたが人生のタスクを回避し、人生の嘘にすがっていたとしても、それはあなたが「悪」に染まっているからではない。道徳的価値観から糾弾されるべき問題ではなく、ただ「勇気」の問題なのです。
・フロイト的な原因論は「所有の心理学」であり、やがて決定論に行き着く。アドラー心理学は「使用の心理学」であり、決めるのはあなたなのです。
・われわれ人間は、原因論的なトラウマに翻弄されるほど脆弱な存在ではありません。目的論の立場に立って、自らの人生を、自らのライフスタイルを、自分の手で選ぶのです。われわれには、その力があります。
・適切な行動をとったり、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる。賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動はしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイル。
・他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになる。
・承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。
・もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのでない」のだとしたら、他者もまた「あなたの期待を満たすためにいきているのではない」。相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。それが当たり前なのです。
・大切なのは、子どもが窮地に陥ったとき、素直に親に相談しようと思えるか、普段からそれだけの信頼関係を築けているか。
・子どもとの関係に悩んでいる親は、「子どもこそ我が人生」だと考えてしまいがち。要するに、子どもの課題までも自分の課題だと思って抱え込んでいる。いつも子どものことばかり考えて、気がついたときには人生から「わたし」が消えている。しかし、どれだけ子どもの課題を背負い込んだところで、こどもは独立した個人です。親の思い通りになるものではありません。
・「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」たとえ我が子であっても、親の期待を満たすために生きているのではないのです。
・むしろ距離が近い家族だからこと、もっと意識的に課題を分離していく必要があります。
・相手を信じること。これはあなたの課題です。しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどのように動くかは、他者の課題なのです。
・たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるか。愛することができるか。アドラーの語る「愛のタスク」には、そこまでの問いかけが含まれています。
・上司がどれだけ理不尽な怒りをぶつけてこようと、それは「わたし」の課題ではない。理不尽なる感情は、上司自身が始末するべき課題である。すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。わたしのなすべきことは、自らの人生に嘘をつくことなく、自らの課題に立ち向かうこと。
・まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。どこまでが、自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きするのです。他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない。
・他者がわたしをどう思うのか、わたしに対してどのような評価を下すか、それは他者の課題であって、わたしにはどうすることもできない。わたしはただ、自らの人生に嘘をつくことなく、やるべきことをやるだけである。
・紀元前4世紀に活躍したマケドニアの国王アレクサンドロス大王がペルシア領のリュディアに遠征したとき、かつての国王、ゴルディオスによって神殿の支柱に固く結びつけられた戦車がまつってあり、「この結び目を解いた者がアジアの王になる」という伝説があった。腕に覚えのある多くの者が挑んだが、誰にも結び目は解けなかった。アレクサンドロス大王は、結び目が固いと見るや、短剣を取り出して一刀両断に断ち切ってしまった。
彼は、「運命とは、伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものだ」と言った。一般に「ゴルディオスの結び目」として知られる有名な逸話。このように、複雑に絡み合った結び目、つまり対人関係における「しがらみ」は、もはや従来的な方法で解きほぐすのではなく、なにかまったく新しい手段で断ち切らなければなりません。
・親が子どものことをずっと叱ってばかりいては、心が遠く離れてしまう。子どもは親に相談することができなくなり、親のほうも適切な援助ができなくなるでしょう。差し伸べれば手が届く、けれど相手の領域には踏み込まない。そんな適度な距離を保つことが大切。
・子どもがなかなか靴のひもを結べずにいる。忙しい母親からすると、結べるまで待つよりも自分が結んだほうが早い。でも、それは介入であり、子どもの課題を取り上げてしまっている。介入が繰り返された結果、子どもはなにも学ばなくなり、人生のタスクに立ち向かう勇気がくじかれることになる。「困難に直面することを教えられなかった子どもたちは、あらゆる困難を避けようとするだろう」
・周りに10人の他者がいたら、嫌われたくないとの一心から、10人全員に忠誠を誓う。これはちょうどポピュリズムに陥った政治家のようなもので、できないことまで「できる」と約束したり、取れない責任まで引き受けたりしてしまうことになる。無論、その嘘はほどなく発覚してしまう。そして、信用を失い、自らの人生をより苦しいものとしてしまう。
・他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方。
・あなたのことをよく思わない人がいても、それはあなたの課題ではない。そしてまた、「自分のことを好きになるべきだ」「これだけ尽くしているのだから、好きにならないのはおかしい」と考えるのも、相手の課題に介入した見返り的な発想。
・嫌われる可能性を怖れることなく、前に進んでいく。坂道を転がるように生きるのではなく、眼前の坂を登っていく。それが人間にとっての自由。
・「馬を水辺に連れていく」ところまでの努力はする。しかし、そこで水を呑むか呑まないかは、その人の課題なのです。
・幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれます。その勇気を持ちえたとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。
・他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚という。
・他者はどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価しているのか? どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか? こうした承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようでいて、実際には自分のことしか見ていない。他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち、自己中心的。
・自分の人生における主人公は「わたし」である。しかし、「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部。
・自分にしか関心を持たない人は、自分が世界の中心にいると考えてしまう。こうしたひとたちにとっての他者とは、「わたしのためになにかをしてくれる人」でしかない。みんなわたしのために動くべき存在であり、わたしの気持ちを最優先に考えるべきだと、半ば本気で思っている。
・われわれが対人関係の中で困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則。
・ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれている。夕食の準備を手伝ってくれた子どもに対して「お手伝い、えらいわね」とほめる母親がいる。しかし、夫が同じことをして、さすがに「えらいわね」とは言わない。
・人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」。そこには感謝も尊敬も存在しない。
・われわれが他者をほめたり叱ったりするのは「アメを使うか、ムチを使うか」の違いでしかなく、背後にある目的は操作。アドラー心理学が賞罰教育を強く否定しているのは、それが子どもを操作するためだから。
・子どもが勉強すること。これは子どもが自ら解決すべき課題であって、親や教師が肩代わりできるものではない。介入とは、こうした他者の課題に土足で踏み込み、「勉強しなさい」とか「あの大学を受けなさい」と指示すること。
・援助とは、大前提に課題の分離があり、横の関係がある。勉強は子どもの課題であると、理解した上で、できることを考える。勉強しなさいと上から命令するのではなく、本人に「自分は勉強ができるのだ」と自信を持ち、自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかける。
・横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいる。
・ほめてもらうことが目的になってしまうと、結局は他者の価値観に合わせた生き方を選ぶことになる。
・仕事を手伝ってくれたパートナーに「ありがとう」と、感謝の言葉を伝える。あるいは「うれしい」と素直な喜びを伝える。「助かったよ」とお礼の言葉を伝える。これが横の関係に基づく勇気づけのアプローチ。
・ほめられるということは、他者から「よい」と評価を受けている。そして、その行為が「よい」のか「悪い」のかを決めるのは他者の物差し。ほめてもらうことを望むのなら、他者の物差しに合わせ、自らの自由にブレーキをかけるしかない。一方、「ありがとう」は評価ではなく、もっと純粋な感謝の言葉。人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知る。
・「人は、自分に価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる」
・わたしは共同体にとって有益なのだと思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。共同体、つまり他者に働きかけ、わたしは誰かの役に立っていると思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。
・われわれは「ここに存在している」というだけで、すでに他者の役に立っているのだし、価値がある。たとえば、あなたのお母さまが交通事故に遭われたとしましょう。意識不明の重体で、命さえ危ぶまれる状態だと。このとき、あなたはお母さまが「なにをしたか」など考えません。生きているだけで嬉しい。今日の命がつながってくれただけで嬉しい、と感じるはずです。
・われわれは他者を見るとき、ともすれば「自分にとっての理想像」を勝手にこしらえ、そこから引き算するように評価してしまうものです。
・ありのままのわが子を誰とも比べることなく、ありのままに見て、そこにいてくれることを喜び、感謝していく。理想像から減点するのではなく、ゼロの地点から出発する。そうすれば「存在」そのものに声をかけることができるはずです。
・引きこもりの子どもが、食後の洗い物を手伝ってくれた。素直にありがとうと声をかけることができれば、子どもは自らの価値を実感し、新しい一歩を踏み出すかもしれない。しかし、そんなことはいいから学校に行きなさいと言ってしまうのは、理想の子ども像から引き算していることになり、子どもの勇気をくじく結果になってしまう。
・ひとりであれば、誰もが王のように振る舞える。「無邪気な自分」がいないのではなく、ただ人前でそれができないというだけ。
・自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけること。
・自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくこと。
・われわれは「なにが与えられているか」について、変えることはできない。しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができる。
・あきらめという言葉には、元来「明らかに見る」という意味がある。物事の真理をしっかり見定めること。それが「あきらめ」。
・信用とは条件付きの話。英語で言うところのクレジット。銀行でお金を借りようとすれば、担保が必要になる。「あなたが返済してくれるなら貸す」「あなたが返済可能な分だけ貸す」という態度は、信頼しているのではありません。信用です。
・他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないこと。たとえ信用に足るだけの客観的根拠がなかろうと、信じる。担保のことなど考えずに、無条件に信じる。それが信頼です。
・裏切られることもあります。借金の保証人がそうであるように、こちらが損害を被ることもあるでしょう。それでもなお、信じ続ける態度を信頼と呼ぶのです。
・あなたから裏切られてもなお、無条件に信じ続けてくれる人がいる。どんな仕打ちを受けても、信頼してくれる人がいる。そんな人に対して、あなたは何度も背信行為を働くことができますか?
・信頼の対義語は、懐疑。あなたが疑いの目を向けていることは、相手も瞬時に察知します。「この人はわたしのことを信頼していない」と、直感的に理解します。そこからなにかしらの前向きな関係が築けると思いますか? われわれは無条件の信頼を置くからこそ、深い関係が築けるのです。
・裏切るか裏切らないかを決めるのは、あなたではありません。それは他者の課題です。あなたはただ「わたしがどうするか」だけを考えればいいのです。「相手が裏切らないのなら、わたしも与えましょう」というのは、担保や条件に基づく信用の関係でしかありません。
・課題の分離ができるようになると人生は驚くほどシンプルな姿を取り戻します。もっとも、課題の分離という原理原則を理解することは容易であっても、実践するのは難しい。
・たとえ家族から「ありがとう」と言われなくても食器を片付けながら「わたしは家族の役に立てている」と考えてほしいのです。他者がわたしになにをしてくれるかではなく、わたしが他者になにをできるかを考え、実践していきたいのです。
・「自立すること」と「わたしには能力がある、という意識」は、自己受容に関する話。「社会と調和して暮らせること」と「人々はわたしの仲間である、という意識」は、他者信頼につながり、他者貢献につながっていく。
・ユダヤ教の教えに「10人の人がいるなら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。そして10人のうち2人は、互いにすべてを受け入れあえる親友になれる。残りの7人は、そのどちらでもない」。このとき、あなたはあなたを嫌う1人に注目するのか。それともあなたのことが大好きな2人にフォーカスを当てるのか。あるいはその他大勢である7人に注目するのか。人生の調和を欠いた人は、嫌いな1人だけを見て「世界」を判断してしまう。
・人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないこと。
・「わたしは共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役に立っている」という思いだけが、自らに価値あることを実感させてくれる。
・他者貢献とは、目に見える貢献でなくともかまわない。
・貢献感を得るための手段が「他者から承認されること」になってしまうと、結局は他者の望みどおりの人生を歩まざるをえない。承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。われわれは自由を選びながら、なおかつ幸福をめざす存在。
・自分が劇場の舞台に立っている姿を想像してください。会場全体に蛍光灯がついていれば、客席の一番奥まで見渡せるでしょう。しかし、自分に強烈なスポットライトがあたっていれば、最前列さえ見えなくなるはずです。われわれの人生も全く同じです。人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこと、過去や未来が見えるような気がしてしまう。しかし、もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。
・われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きておらず、うすらぼんやりとした光の中で生きている証です。
・人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来をみることで、自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、みらいがどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。
・人生を物語りに見立てることはおもしろい作業でしょう。ところが、物語の先には「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまいます。しかも、その物語に沿った生を送ろうとするのです。わたしの人生はこうだから、そのとおりに生きる以外にない、悪いのはわたしではなく、過去であり、環境なのだと。ここで持ち出される過去は、まさしく免罪符であり、人生の嘘にほかなりません。しかし、人生とは点の連続であり、連続する刹那である。そのことが理解できれば、もはや物語は必要なくなるでしょう。
・「いま、ここ」にスポットライトを当てるというのは、いまできることを真剣かつ丁寧にやっていくことです。
・人生のおける最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、なにか見えたつもりになることです。あなたはこれまで、「いま、ここ」から目を背け、ありもしない過去と未来ばかりに光を当ててこられた。自分の人生に、かけがえのない刹那に、大いなる嘘をついてこられた。
・旅人が北極星を頼りに旅するように、われわれの人生にも「導きの星」が必要になる。この指針さえ見失わなければいいのだ、こちらの方向に向かって進んでいれば幸福があるのだ、という巨大な理想になります。その星の名は「他者貢献!」。
・あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。
・誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ!他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく!
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